国会議事堂
ウランバートルにある国会議事堂。
ソ連に抑留された日本兵が建設したという。
向かって右手の像がフビライハーン。
国会議事堂
中央の大きな像がチンギスハーン
スフバートル像
モンゴル独立の功労者スフバートル
 
2007.8月記

ソビエトとチンギスハーン

 

現在の「モンゴル国」という国名はさほど古いものでは無い。
ソビエト連邦有りし頃は「モンゴル人民共和国」だった。
ソ連と同様の社会主義国だった。

1991年のソビエト崩壊と共に全てが変わる。
国名が変わる。
チンギスハーンがモンゴルの英雄として復活するのもソビエト崩壊後の事。
特に昨年がチンギスハーンの生誕800年という事らしく、チンギスハーンへの人民の盛り上がりを感じさせられた。

社会主義の平等思想から言うとチンギスハーンという存在は望ましくなかったのだろう。
過去を否定する、という意味では、かつての中国の文化大革命頃の様に過去の歴史を否定し、孔子や儒教までも否定してしまうのと類似している。

かつてのソ連の名残りはあちらこちらに残存している。
国会議事堂を真正面から見るとそのど真ん中に朝青龍の10倍ぐらいの大きなチンギスハーンの像があり、向かって右手にはかの元寇で日本の教科書には欠かされないフビライハーンの像、向かって左手はチンギスハーンの息子の一人、メモっていたが字が汚くて読めない。長男のジョチでない事だけは確認したが、三男とか言っていた様な・・。
チンギスハーンには山ほど子供がいたであろうから、長男のジョチ以外は何がなんだか・・。三男はオゴディだったと思うが、どうも手元のメモをどう見ても「オゴディ」には見えない。我がか書いたメモを我がで読めないとは何のためのメモだったのだろう。
一応、はるか昔に読んだ井上靖の「蒼き狼」でも再読してみよう。
・・・といつの間にかソ連の名残りから逸脱してしまっているではないか。
その国会議事堂を建てたのが、なんとソ連に抑留されていた旧日本兵人達なのだと言う。日本の抑留兵達の建てたものを他にも紹介してもらったが、どうも手元のメモが汚くて怪しい。
日本人の抑留兵はシベリアの厳寒の中で作業を強いられたと聞くがウランバートルでの作業者はまだマシだったのだろうか。
夏は気温が35℃であろうと日本の夏よりは湿気が少ない分過ごしやすいし、夜になればその暑さは無くなり涼しい。
ホテルの空調を使うより、窓を開け放った方がより涼しいのだ。
ただ、抑留兵は冬も仕事を強いられただろう。
厳寒の摂氏マイナス30度は寒いを通り越して顔も手も何もかもが痛いのではないかと思うが、ちょっと想像がつかない。
バナナで釘が打てる世界なのだろうか。
いずれにしろ、チンギスハーンの像を前に写真を撮ってはしゃぐ前に日本人抑留兵が鼻から氷柱を出しながら建てたものなのだ、と同じ日本人として彼の人々への哀悼の念を思いつつ写真を撮るべきなのだろう。(結局、写真を撮るという行為は一緒か)

源義経は奥州平泉にて討ち死にしたのでは無く、奥州を逃れて後にチンギスハーンになったのだ、などと言う説がある。
これは説というよりも義経ファンの「そうだったらいいのになぁ」という単なる夢である。
義経ほどの政治オンチがあの大陸を征服し支配出来る訳も無く、また義経にはそんな野望も無かっただろう。
その様な説が出て来る根拠は時代がピッタシ、というだけでは無いだろう。
これは司馬遼太郎が何かに書いていたが、この人類の歴史上で騎馬戦での天才はほんのわずかしかいないのだという。
チンギスハーン、源義経、ナポレオンそして日露戦争時の秋山好古。
しかしながら義経は大草原で戦った訳では無く、鵯越にしても奇襲戦法。
屋島もほぼ奇襲。最後の壇ノ浦は海上戦で、この大陸の様な大平原にての騎兵を行った訳では無いので、戦いにおいても義経とチンギスハーンは全く異なるのである。

社会主義政権時代は全て国営の教育機関で教育費が無償だったため、識字率が99%だったのが、現在は教育に金がかかるため85%前後だと言う。
どうだ、85%でも驚異的な数字だろう、と自慢されても・・・。
確かにバングラディシュやパキスタンよりは高いかもしれないが、昨今の東南アジア諸国に比べたらどうか、日本での明治維新の頃より高いか、と問われたらその答えは「NO」なのではないだろうか。
(ちなみに日本の明治初期の頃の識字率は世界一だったと言われています)
それより何より、国の大半が砂漠と草原でそこに暮らす人々は遊牧という名の放浪をしている訳で、人口だって正確な数字はわからない。
それでいて、なんで識字率なんていう数値だけが・・・どこまであてになるのか、わかったものでは無い。

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